高所医学総論

増山茂

高所医学とは「高所」

09jsmmed_meeting28.jpg"高所"といっても定義は様々である。あるものは3000m 以上を、あるものは5000m 以上をイメージするだろう。またあるものは8000m なければ高所じゃないと意気がる。しかしどの場合にも共通するのは、この言葉に"異常な状態である"というニュアンスを与えていることである。"高所"とは、その地理的物理的特性(高度)がそこに赴く人々に医学的生理学的異常を与えうる所、と一応定義しておく。大体標高3000m 以上ということになろうが、標高2500m でも肺水腫になる人もいる。地理学・物理学的というより、医学的な定義である。

高所医学とは「低酸素」

O2_altitude.jpg図1の青線は空気中の酸素分圧をあらわす。地上では約150mmHg、エベレストの頂上(8848m, PB=253mmHg)では約53mmHg である。ヘリコプターでエベレストの頂上に降り立つとしよう。循環や呼吸や代謝に変化が全くないとすると、図1の赤線に示すように、
PaO2≒PAO2-5=PIO2-PACO2/R-5=(253-47)*0.21-40/0.8-5≒-9mmHg 
理屈の上では血液中には酸素がまったくないことになる。こんなところでは運動どころか生存だって無理にきまっている。8848m が非現実的というなら4000m、PB=462mmHg にしよう。この高さにはエベレストの見えるホテルもあるし、それ以上の高さの峠だって世界中にはたくさんある。やはりヘリコプターで降り立つと、
PaO2≒PAO2-5=PIO2-PACO2/R-5=(462-47)*0.21-40/0.8-5≒32mmHg 
動脈の酸素分圧が32mmHg しかありません、と病院でお医者さんに言ってごらんなさい。何を馬鹿なことをと笑われるか、即座にICU に担ぎ込まれるか、さもなくばもうすぐご臨終ですねと宣告されるかのいずれかであろう。”普通の医学”の結論はこのようなものである。しかし、一部の特異な能力の持ち主はエベレストの頂上まで酸素補給なしに到達することができる。健康な人であれば4000m の高さでも何日も滞在することができる。”高所の医学”とは、酸素というヒトの生存に必須な材料が乏しくなった場合でも、ヘリコプターならダメだが歩いてゆけば生き延びることができるのはなぜかを考える医学である。もちろん、死なないまでも様々な障害は出る。これを急性高山病と呼ぶ。酸素が少ないのだから当然であるが、いったい細胞ではどういうメカニズムで酸素が使われるのか、臓器や組織では低酸素にどう反応しているのかは”高所”で実際調べなければ判らないことも多い。すべての臓器に低酸素による障害が見出されるであろうが、こういう慢性の酸素欠乏にどう対処したら良いかを考えるのも”高所の医学”の守備範囲である。

高所医学とは「寒さ」

resize0307.jpg山の上は寒い。152m 登ると気温は大体1℃低下する。4000m 登れば26℃下がる。これは単純な物理法則であって、緯度とは無関係である。ただし高緯度地方では夏と冬の気温差が大きい。赤道直下のキリマンジャロでは気温は年間を通じて安定しているのだが、冬のマッキンリーは厳しい。エベレスト頂上の平均気温を-40℃とみなしているが、冬期マッキンリーでは-50℃にもなる。ただ寒いだけではない。日中と夜間の温度差も大きくなる。照り返しのある氷河上であると日中の+30℃から夜間の-30℃へと60℃の格差がありえ人の適応力を奪う。また風は寒さを増幅する。体感温度は低下する。風冷え効果という。エベレスト頂上の風速は150km/時に達することがある。人は恒温動物である、というが、つまりは身体の細胞や組織で行われる生化学的反応を媒介する酵素の活性がある非常に狭い温度範囲でしか保障されないということを意味する。体温が奪われると、全身の生化学反応が落ちる。筋肉は硬直し協調性を失う。心臓の刺激伝達は失調し心筋の収縮力は落ち心拍出量が低下する。寒冷に伴う利尿による循環血液量の低下もあいまって組織とくに脳への酸素供給が阻害され、すべての脳の神経活動の低下がおこる。つまりは、全身的には低体温症、局所的には凍傷という手痛いしっぺかえしを食らう。時には不可逆的な肉体的損傷を招くことになりかねない。これも高所医学の守備範囲である。

高所医学とは「乾燥・脱水」

resize1145.jpg相対的湿度は山の上でも天候により変化する。雨や雪が降れば湿度が100%になるのは珍しくない。ただし、空気中に含まれる水蒸気の絶対量は高度と強い関係がある。高度というより気温がこれを決定する。20 ゚C の飽和水蒸気圧は17mmHg である。つまり20 ゚C の空気は17mmHg 分の水分を含みうる。ところが-20 ゚C での飽和水蒸気圧は1mmHg。空気はたった1mmHg 分の水分しか含めないのである。相対的湿度はどうであれ、高所の空気は常に"乾いて"いる。高所ではだれもが呼吸が大きく早くなる。高度5500m でのほんの軽い運動でも、呼吸によって肺から失われる水分は一時間あたり200ml と推定される。発汗による水分喪失も乾燥した空気のもとでは大きくなる。急激な水分喪失による脱水は血液を濃縮させ、血液を固まり易くする。高所での脱水では地上での場合ほど強い口渇感をもたらすことがないので、登山者は意識して水分摂取につとめる必要がある。尿量を十分(1.5 リットル/日)保つことも重要なので、高所登山者は一日最低3-4 リットルの水分の摂取が必要である。

高所医学とは:日射・紫外線・宇宙線

空気の層が薄いこと、空気中の水蒸気量が少ないこと、いずれも太陽光線の空気中での散乱量を減らす。標高5790m の晴れた日の場合では、人体が吸収する日射量は海抜0mに届く日射量に比べ50%増加となっていた(Ward,1975)。とくに短波長の紫外線領域に影響が強くでやすい。地表面の反射も重要な要素である。通常では地表面の反射率は20%に満たないが、高所の雪や氷河では90%に達することがある。皮膚・目が障害を受けやすい。光学的遮蔽物(帽子やサングラス)は必携である。同じ理由で電離放射線被爆も増えると考えられている。

これら高所環境のもたらす影響を考えるのが”高所医学”である。

登山の医学ハンドブック日本登山医学研究会編集、杏林書院、2000 増山茂